みなさま初めまして、私は潟上市昭和にあります圓福寺で副住職をしております信田高(シダマサル)と申します。この度ご縁があり寄稿させて頂くことになりました。私は現在、長女、長男、次男の三人の父親でもあります。そこで仏教から見た子育てを私なりに例えて皆様のお役に立てればと思います。
さあここで本題に入りますが、私が今和尚として基礎にしている臨済宗では、「禅語」を用いて例え話をします。
禅語とは、修行僧が「悟りを開く」ための近道を言葉で表したもので、一般の方であれば人生の苦悩をいかに少なくするためのヒントだと思ってください。
現代で例えれば日めくりカレンダーに有名人の一言が書いてありそれを見て一日元気をもらえる、という所でしょうか
また「悟りを開く」をかなり噛み砕いた解釈をすると、日頃気づかない当たり前のことに気づける「心の余裕」を持てたということです。
そこで、数ある禅語の中で紹介したいと思ったのは「看脚下(かんきゃっか)」です。寺院などの玄関先におかれている事が多い禅語で意味としては「足下を見よ」です。
玄関でこの言葉を見ると真っ先に思い浮かぶのは自分の靴ではないでしょうか?
・靴を揃えているか?
・そういえば自分の子供はどうかな?
・あれ自分の家の玄関の靴はいまどうだったかな~?
・最近掃除したかな~?・・・など
最初に感じたことから数珠つなぎに思い出してしまうかもしれません。
ここからさらに深く意味を考えてしまうと、今まで自分が生きてきた人生さえも見直してしまいそうですが、いきなりそこまで見つめ直す必要はないので日頃の子育ての場面に当てはめてみましょう。
例えば子供に「おもちゃを整理整頓しなさい」と注意をしている時を思い出してみてください。
そこであの「看脚下」を思い出すと、はたして自分はできているのか?と考えるのではないでしょうか。
・自分の机の上は片づけているか?
・冷蔵庫の中は整理整頓されている?
・押し入れの洋服は?
・隅々まで掃除はできている?・・・それを子供の目線で見られているのではないかと?
こちらも数え上げればきりがありません。ここで大事なことは「できてない部分を今からすべて直す」ではなく、自分自身に足りていない所が有ると気づけた「心の余裕」で、自分自身を客観的に見るという簡単そうで実際行うことが難しい事ができた瞬間だと思います
その「心の余裕」こそが、近年巷で起きている子育て問題の解決に役立つのではないかと思っております。
なんて偉そうに書いていますが、自分自身でもできていない所が多々あります。そうは思いながらも子供には強気で色々な事をさもできているかのように指導している自分もいます。お恥ずかしい限りです。
「日頃当たり前のように見たり聞いたり触ったり感じたりする事が人生のヒントになるよ」「それが自分を見直すタイミングになるよ」と過去の和尚達が禅語に残してくれています。
皆様もインターネットで禅語を検索してみてください、もしかしたら今の自分の状況に当てはまりヒントをくれる禅語に出会えるかもしれません。
なかなか文章ではお伝えすることは難しいですが、この寄稿を機に皆様の子育ての微力ながら手助けになれたのであれば幸いです。
合掌